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旭川地方裁判所 昭和30年(わ)355号 判決 1959年3月24日

被告人 少年 O(昭一二・九・二〇生)

被告人 少年 K(昭一三・一・七生)

主文

被告人等は無罪。

理由

第一、本件公訴事実

被告人両名は何れも少年であるが、昭和二十九年九月十六日午後十一時頃、雨竜郡妹背牛町第一区市街岩手屋旅館方前路上においてA(当時十六年)を認め共謀の上同女を強姦しようと企て、同女を同十一時二十分頃同町第一町内北海道購買農業協同組合連合会妹背牛木品工場原木置場に誘い出し被告人Oは同女に対し「やらせろ」と申し向けると同女が逃げ出したので被告人両名は同女の手足口等を押えて同原木置場通路中央附近空地に拉致し被告人Oが同女の両手、肩等を押え、被告人Kが馬乗りとなり同女の反抗を全く抑圧したうえで被告人Kにおいて、強いて同女を姦淫中同女が大声を挙げて救助を求めたので被告人Kは、被告人Oがハンカチーフをもつて同女の口を押えたり同女の首に巻きつけたりすれば、同女がそのため窒息死することあるを予見しながら、同女所有の手提袋から木綿製ハンカチーフを取出し被告人Oに渡すと、同被告人はこれを殺意をもつて同女の首に巻付けて首を締め続け、更に之をその儘結縛し次いで被告人Oは同女に馬乗りとなり強いて同女を姦淫したが、右ハンカチーフによる結縛の結果同女を間もなく窒息死に致らしめもつて夫々その所期の目的を遂げたものである。

第二、証拠に対する検討

一、被害者の被害当日の行動について

証人B同Cに対する各尋問調書、第十回公判調書中証人Dの供述記載及び証人藤岡ヨシヱの当公判廷における供述を綜合すれば、被害者Aは雨竜郡妹背牛町四区Cの姪であつて同郡深川町十号山三線に居住していたが昭和二十九年九月十五日妹背牛町の秋祭りを見ようと、同日午前十一時頃深川を発ち、右C方に赴いてその日は同人方に宿泊し、翌十六日午後三時頃、右Cの今晩も泊れとの勧めに対し、「友達が来るし、母さんが一晩泊つたら帰れといつていたから友達と一緒に帰る」旨答え帰り仕度をして市街へ出かけたこと、午後三時三十分から同四時頃に同町の聚楽座に映画観覧に入場し、同八時か八時三十分頃、木戸番をしていた藤岡ヨシヱの「今から深川へ帰るのですか」の問に「いいえ明日の朝早々バスで帰ります」と答え出場したことが認められる。しかしてそれ以後殺害されるまでの間の行動については被告人両名の供述調書、録音テープ以外にこれを認める証拠は存在しない。

二、被害現場の位置、状況について

受命裁判官(昭和三十一年七月二十三日付)、司法警察員の各検証調書、検察官の実況見分書によると、本件犯行現場は雨竜郡妹背牛町字妹背牛市街一町内北購連妹背牛木品工場木材置土場内であつて、同所は妹背牛町市街のほぼ南方の街外れに当り国鉄函館本線妹背牛駅から西南方江部乙駅寄り約二百米の線路上より北西方約四十二米の地点で被害者の発見された場所は、木材置土場東南側に線路と平行に建てられた妹背牛第七農業倉庫(現在宮崎わら飼料商店倉庫)(間口三十三米八十糎、奥行三米三十糎)の南西端から並らび存置してあつた原木山の数にして二つ目と三つ目の間(その間隔は約一米六十糎)で三つ目の山のほぼ中央下際である。死体は同所に頭部を線路側にして体を伸ばし顔面を僅かに右側に捻じ向け俯伏せの形で鼠色ビニール製雨合羽(証第三号)を着用し、黒色メリヤス製ズロース(証第七号)を両足首まで下げ靴を脱ぎ白木綿ソックス(証第八号)を履いており、背面上部に濃紺セル地女物平ズボン(証第十号)を載せていた。左膝の右三十五糎の地面に右足の黒ビロード製パンプス型女靴(証第十二号)が右足下腿の下に左足の黒ビロード製パンプス型女靴(証第十二号)があり、頭部の二十糎右側にビニール製手提(証第一号)が置かれてある。頸部には白ガーゼ地ハンカチーフ(証第十三号)を一巻きにし若干の頭髪と共に頸部の右後部において両端を二重に結び片方の端をその結び目の中に入れたまま蝶結びのようにしてあつたことが認められる。

三、被害者の死亡日時並びに死因について

医師斎藤武雄作成の死体解剖検査並びに鑑定書、受命裁判官の同人に対する尋問調書、鑑定人井上剛作成の鑑定書によれば、被害者の死亡日時は、解剖時(昭和二十九年九月十八日午前十時)まで死後約三十五時間乃至四十時間経過し、従つて、同月十六日午後八時頃死亡したものと推定せられること、死因は頸部絞扼による窒息死であつて、その兇器は手及び柔軟なる布製品による扼圧、絞頸であることが認められる。

四、被告人両名の自供の経過について

証人井上清の第三回、同原田清治の第四回、同藤田藤男、同鈴木総次郎の第十二回各公判調書中のその供述記載、証人松木朗に対する尋問調書、家庭裁判所の両被告人に対する少年調査記録を綜合すれば、本件被害発生以来三百人余りの容疑者を取調べるも犯人を検挙するに至らないまま一年を経過した昭和三十年九月二十八日、妹背牛町の前記聚楽座においてストリップショウーが催された際、当時少年であつた被告人Kは同劇場の便所の窓を破壊して入場し、同所に隠れていたところを風紀取締中の警察官に発見され、同月三十日補導のため、同町深川警察署妹背牛巡査部長派出所において取調を受けた。その際別事件である強姦(但し起訴されず)と共に本件犯行を自白するに至つた。第一回供述調書作成の後一旦さきの供述を翻えして否認したが、右自白により深川警察署において逮捕状が執行されるや、同署における取調に対してはその供述内容に変化があつたが一貫して自白していたものである。

被告人Oは被告人Kの自白に基ずき、同年十月十五日逮捕状が執行され沼田警察署に身柄を拘束、その取調に対しては当初否認していたが翌十六日自白し、以後数回の取調べに対してはその供述内容に幾たびか変更を重ねたが、犯行自体は終始これを認め、最終的には被告人の自供内容はほぼ合致するに至つた。

しかるに被告人両名は、同年十月二十六日旭川家庭裁判所において観護措置決定を受け旭川少年鑑別所に収容され、同年十一月二日同裁判所調査官の面接調査を受けるや、真向より犯行を否認するに至り、爾来公判廷においてもこの態度を全く変えないものである。

五、被告人両名の自供の内容について

(一)  被告人Kの本件犯行に関する供述録取書面として当公判廷に顕出され証拠調を了したものを作成年月日に従い順次列挙すれば、(1)司法警察員作成の昭和三十年十月五日付供述調書、(2)司法警察員作成の同月六日付供述調書二通(3)司法警察員作成の同月七日付供述調書、(4)司法警察員作成の同月十日付供述調書、(5)検察官作成の同月十二日付供述調書、(6)検察官作成の同月十三日付供述調書(二通の中二十五枚の分)、(7)司法警察員作成の同月十八日付供述書、(8)検察官作成の同月二十二日付供述調書、(9)検察官作成の実況見分書中被告人の指示説明を記載した部分(同月二十三日実況見分)、(10)その他に同月九日に録音テープ等であつて右証拠による最終的な自白内容の概略は次に摘記するとおりである。

『昭和二十九年九月十六日午後七時頃、森口正宏、新明安雄と共に妹背牛町の祭を見に出掛け(市街地まで歩いて二、三十分、自転車で四、五分位)自転車を市街地十字街に所在する中野自転車店に預け同所附近において開催されていた芝居を新明安雄と観、やがて同人は混雑のため見失つてしまつたが、午後十時三十分頃終了の後聚楽座のナイトショウを見ようとして同座に向い歩いていたところ同方面より歩いて来る被告人Oに出会つた。Oは「映画を観て来た」と言つており、同所より同人と十字街の角まで逆戻りして来た際Oは「女つかまんか」と言つたので「うん」と返事をし中野自転車を取りに行き、それを押しながらOと妹背牛駅に向い歩いて行つた。風呂屋の前辺りまで進んだ時前方に妹背牛駅に向い通行中の女を発見したのでOに「あの女やるべ」と言つて尾行した。その女の人は自分の鼻の辺り位の高さで頭はオカッパにして髪は首の辺りまで下げていた。顔は丸い方で上着は黒つぽく下も黒つぽくズボンの様なものを穿き踵の高い靴を履いていた。そして警察の前を通り、灌漑溝の脇の同町三区に通ずる道路に右折し今井精米所の前に行つたとき、同女に対し「あんた何処へ行くの」声をかけたところ同女は「四区へ行く」と言つたので「おらも四区へ行くから一緒に行かんか」と連れになつて歩き鉄道線路へ通ずる道路との四つ角に差しかかつたとき、Oに「丸太の所へ行つて休まんか」と言つたらOは女に「休んで行こう」と誘い丸太置場にある鉄板倉庫のすぐ脇の丸太の山の下の方に女を中に自分がその右、Oが左に道路を隔てて所在する鉄道官舎に向つて腰を下した。それから五分位黙つて休んでいたがOが急に「やらせろ」と言うと女は「嫌だ」と言つて道路の附近まで逃げた。それでOと二人で追いかけ右手で女の左肩を掴まえたら女が大きな声を出したので左手で女の口を押え、右手を脇より胸へ廻すとOが足を抱えたので、そのまま倉庫から奥の方へ三つ目の丸太の山の前まで運んで短い草の生えている地面に下した。その時口を塞いでいた左手を離したら又声を出したので両手で顔や口を押えつけていたところOが女のズボンやパンツを足首の方へ下げ私に「やれ」とすすめたのでズボンとパンツを脱ぎ女の上に乗り左手で女の口を押え右手で地面を支えて陰けいを女の陰部に挿入した。すると女は首を横に振り暴れ出したので口をきつく塞ごうとしたが手がぬらぬらして滑り押えることが出来ずそれで手を離したら、声を出したのでOに口を押えさせ草の上をこすりつけたところ、ハンドバックに手が触れた。そこで両手で開けてみると一番上に白いハンカチが見えたので取り出しOに「口を塞げ」といつて手渡した。ハンカチは色は白く薄い柔かいあまり大きくないものだつた。Oはそのハンカチを女の首に廻し上の方で両端を引張つて居た。女はOが手を離すと手をばたばたさせたので私は両手を押えていた。暫らくすると女はぐんなりし、私は射精したので女から降りOと交替した。Oは私に「人が来ないか道路の方を見ておれ」と言つたので鉄板倉庫の方の丸太の山の蔭から道路の方を見張つていた。それから五分位してOが「女が死んだから片付けるべ」と言つて来たのでびつくりしたが放つておく訳にも行かないので、私は女の両脇から手を入れOは足を持つて持ち上げ、私が後退りして鉄板倉庫から二つ目と三つ目の丸太の山の間を鉄道線路の方に入り三つ目の丸太の山の下に転がして入れた。それで女は下向きになつたがその際頭が丸太の切口に当り「こつん」と音がした。女の靴は私が持つて来て足の下に入れた。そして鉄板倉庫脇の道路まで出たときOは「これをばらしたら大変なことになる」と言い先の四つ角で別れるときも「一口でもしやべるとすぐ警察に行かなけりやならんからしやべるな」と言つていた。それからOと別れ自転車に乗つて家に帰つたが、左手を見ると手の掌に少しと指の方に多く血が附いていたので、女の顔を押えたとき鼻血が附いたと思いすぐ流しに行つて石鹸をつけて洗つた。父母はすでに寝ており姉は五分位してから帰つて来た。その後も二、三回Oと会つたがやはり「しやべるな」と同じようなことを言われた。

(二)  同じく被告人Oの供述録取書面で同様取調を了したものを作成年月日に従い順次列挙すれば、(1)司法警察員作成の昭和三十年十月十六日付供述調書(二通中七枚の分)、(2)司法警察員作成の同月十七日付供述調書、(3)検察官作成の同月十八日付供述調書、(4)司法警察員作成の同月十九日付供述調書、(5)司法警察員作成の同月二十日付供述調書、(6)検察官作成の同月二十一日付供述調書、(7)検察官作成の同月二十二日付供述調書、(8)検察官作成の実況見分書中被告人の指示説明を記載した部分(同月二十二日実況見分)、(9)他に同月十九日録音したテープ等であつて、右各証拠による最終的な自白内容の概略は次に摘記するとおりである。

『昭和二十九年九月十六日午後六時三十分頃、深川より帰る父から祭の小遣いを貰おうと出迎えに妹背牛駅に赴いたところ、同駅で私の家に来ていた叔母二人に出会い、父はすでに帰宅している旨伝えられたので、市街地十字路で開かれている芝居を見に行き二幕か三幕の後妹背牛神社で行はれている映画を見に行つた。映画終了の後、聚楽座の前を通り十字路に向つて歩いていると被告人Kに出会つた。そこで私は「女をやるか」と言うとKは「うん」と返事をした。それでKは自転車を取りに行き十字路から左に曲り妹背牛駅に向つて歩いて行くと、宿屋の辺りで風呂屋の前を駅に向い歩いて行く女を見つけた。その女は丸顔で肥つて背は五尺一寸五分位あり、頭はオカッパにして黒い色のようなズボンを穿き手にハンドバックのようなものを持ち十六、七歳位だつた。私は「あの女をやるか」と同女の後をつけ警察の前を通り三区に通ずる道を右に曲り精米所の近くまで来たとき女に声をかけた。そして精米所のそばの四角に来たとき私は「一寸休んで行かんか」と線路の近くの右側にある倉庫や丸太棒が置いてある場所に誘い込み、丸太棒に女を真中にKを線路の方にして坐つた。道路隔だてて所在する鉄道官舎には向つて左より二軒目か三軒目に窓から燈が見え人通りはなかつた。それから三、四分位しか話をしなかつたが、私が「ヘッペさせれ」(性交の意)と言うと女は「嫌だ」と言つて道路の方に逃げだしたのでKが後を追い女の肩を掴み片手で口を押え、私も女の前から胸を押し約二十歩位後退させ材木置場の中の方に連れて行つた。そこでKが女の足を払い草の上に倒し頭の方と口を押え、私が足を押え女のズボンを全部脱がせた。ズボンの左にはパッチン止めみたいなボタンが二つ三つあつた。私はKに「やれ」と言うとKは女の口を押えながらズロースを足首のあたりまで脱がし女と関係したが、Kが油断したところ女が「助けて」と大声で叫んだので私は右手で頭を二、三回殴り口を塞いだ。その時Kはハンカチを渡してくれたのでそれで口を押えたが頭を横に振つて押えられなかつたので、ハンカチを首に巻き付け一巻きして両端を引張ると「う、う」とうなつて静かになつた。それで倉庫の側から(録音では倉庫の方へ向いてと言つている)女の右耳の辺りで玉結びにして縛つた。それからKと代り、Kに「道路の方を見ていれ」と見張りをさせ女と関係したが、性交を終つて女を見ると息をしていないので死んだなと思い、道路の方にいたKに知らせその処置を相談した。そして私が足をKが頭を持ちKが先に立つて丸太の山の二つ目三つ目位の山の間へ入り頭を線路の方にして材木の下の隙間へ入れた。その際体のどこか「ごつん」と当つたような音がした。Kは女のズボンを運んで足の方へかけ、ハンドバックは私が持つて来て体の側に置いた様に覚えている。そしてKと精米所の十字路で別れたが、その際Kに「お父さんやお母さんに今夜のことを言うな、警察にも言うな」と念を押して真直ぐ家に帰つた。Kと別れた場所から家まで歩いて二十分か二十五分かかり午後十二時前に着いた。家では皆寝ていた。』

(三)  被告人両名の自白の内容は以上のとおりであるが、被害者を発見した後の行動に関して両被告人の自白以外何等これを証する証拠がなく従つてその真否はにわかにこれを断定し難く、犯行現場に関する部分においてのみ前認定の現場の状況に照し合致していることが認められる。

六、医師斉藤武雄作成の「死体解剖検査記録並に鑑定書」について

被告人両名の前記自白に対しこれと相容れない証拠とし医師斉藤武雄作成の「死体解剖検査記録並に鑑定書」(以下本件鑑定書と略称する)が存在する。よつて本件鑑定書の鑑定が被告人等の自白の内容と相容れない点について検討することとする。

本件鑑定書によれば被害者Aの死体解剖検査の結果処女膜下部に裂傷が存し少量の出血を認めたうえ「子宮腔内、膣内泌物中に乳白色クリーム状分泌物が存し、検鏡するに相当数の首尾完備する精虫が存す。式に従い吸収試験を行うに精虫の血液型はAB(弱反応)、B(強反応)であり、従つてその血液型はAB又はBにして、ABである確率は90%、Bである確率は90-100%と推定され、死体の血液による血液型はAである。」旨鑑定せられている。この鑑定の結論である精液の血液型が「AB又はB」であることについて、その鑑定の対象件である精液が既に存在せず他にも資料となるものが無いので再鑑定による正否の判定は為し得ないのであるが本件鑑定書、斉藤武雄の検察官に対する供述調書、同人作成の報告書、同人に対する尋問調書の各謄本を資料として鑑定人井上剛が作成した鑑定書、及び本件鑑定書その他を資料として鑑定人古畑種基の作成した鑑定書によると、斉藤医師の精液の検出及び精液の血液型検査方法は何れも妥当であること、本件鑑定における「AB(弱反応)B(強反応)であつてAB型又はB型と推定される」とのことはA型質が弱くB型質が強く証明されたものであると推定され、それに加え後記認定のように被害者の血液型がAS(Sは分泌型)でありその分泌液が精液に混合することがまぬかれず、B型質が精液に由来するものであることから考えると、その精液の供給者の血液型はBS型であると推定されることが認められる。従つて、精液の供給者がB型であると言う意味においてはAB又はBとの結論は妥当ではないこととなるが、何れの鑑定を採用するにしてもB型質の存在は否定し得ないことが明らかである。

これに対し両被告人の血液型は右古畑種基作成の鑑定によれば、被告人OはOMNGS型、被告人KはANGS型であつて両被告人の精液を混合した場合にはAS型となること、被害者の血液型は右鑑定書と本件鑑定書を綜合するとA型であつておそらくその分泌型即ちAS型であろうと考えられ、仮りに被害者の膣液に両被告人の精液が混合した場合を考えればAS型となることが認め得られる

右認定事実よりすれば、両被告人、被害者の血液型中B型質を有するものはなく又その混合によつてもB型は現はれないのであつて、被害者の膣内より検出された精液は被告人両名の精液ではないと言わざるを得ない。

検察官は過去の経験に照し鑑定の結果に誤りがあつた事例があり、本件定鑑書は被告人両名の自白に徴し誤りであると主張する。まことにその主張のように犯罪現場より採取した材料による鑑定は、研究室における学術研究のために準備された資料に基づく科学的検査に比し、天候、温度、時間の経過その他の諸条件の重複のため、その鑑定も困難を極め従つて場合により誤りなきを保し得ないものがあることは必ずしも首肯できないところではない。

しかし本件においては前記古畑種基作成の鑑定書によれば、膣内の精液による血液型の判定は、通常ほぼ死亡前後に性交が行われ死体に著しい腐敗現象が起つていないとすれば死後大凡三日乃至五日位までは検出が可能であることが認められる。本件の場合前記認定のとおり死体の解剖は死後約三十五時間乃至四十時間に行われ、本件鑑定書によれば死体の各臓器の腐敗の進行は軽度にして首尾の完備する精虫を相当量発見し血液型の検出もほぼ同時頃に行われたものと推定されるから本件血液型の検出はその可能な状態の下において行われたものと言うことができる。

従つて本件鑑定に対しては全幅の信を措くに足りるものであつてもしこの鑑定にして誤りがありと主張するならばそれを覆すに足る十分な科学的根拠を示す必要がある。

七、本件自白の証明力について

本件犯行を以つて被告人両名の所為に帰するための証拠としては被告人等の各供述調書及び録音テープのみであり、その自白の内容は前記のとおりであるが、鑑定人医師諏訪望の鑑定書によると、被告人Oは軽度の精神薄弱即ち魯鈍、被告人Kは中等度の精神薄弱即ち痴愚であることが認められるのであつて、自白がかかる低知能のもとになされたものであることに注意せられねばならない。特に被告人Kは右証拠によつて認められるが如く言語の理解力、読解力、計算能力は著しく低度であり、そのうえ前記認定のとおり本件犯行後一年を経過して逮捕されたのであるから、一般にはその間の記憶の喪失ないし稀薄が考えられねばならないことであつて、自白の内容が明確であり詳細であることを期待し得ないのがむしろ当然であるというべきである。しかるに本件自白は実に詳細を極めその供述は整然として明確であり犯行現場を目の当りに見るが如く、反つてそこに作為的な不自然さを看取することができるのである。その自供内容についても前掲供述調書中(1)によると「同日市街に出て直ぐ聚楽座に行き、左の階段を上つて観て右側の階段を降りて階下の一番後方の座席を見たらOが一人で映画を観ていたので私はその側に行つてOに面白くないから出んかと言つたところOはうんと云つて二人で表に出た際Oが私に女をつかまんかと言うので私はうんと返事をしました。……私はOに芝居を観に行こうと言つて十字街に舞台を建ててやつていた芝居のところに行つて道路に立つた時は丁度舞踊をやつたところで……此の芝居を観ていた時Oのすぐ後に一人の二十才位になる女が立つて居て……芝居の終る少し前にOは女の横になつて低い声であつちに散歩に行かんかと話しかけて居た」と、被害者を発見した際の事情を詳細に、供述しているが後にこれを覆えしている。

一方被告人Kの自白に基づき自白した被告人Oの自供は前掲供述調書に明らかな如く最終的に被告人Kの自白と一致するに至るまで変更に次ぐ変更を重ね、しかもその変更された個々の供述の内容は真実であると推測せしめるような具体性を有しているのである。例えば前掲供述調書中(1)(2)(3)において被害者より金品を強取することを企てハンドバックを被告人Kにおいて取りあげたことを述べ、特に(3)において「ハンドバツクの中から金を百六十円盗りました。後で市街の高木さんのところで調べてみたところ百円札一枚と十円札及び銅貨でした。その内六十円と二十円は自分の金を出して八十円にしてKにやりました。百円札は自分のものにしました。尚自分の金は四十円ありましたから百四十円になつています。……四角の細長い香水のびんは洋服のポケツトに入れましたが中は水が入つていたようでした。そのびんは四つ角の近所の三区の方に流れていく川に流しました。」と述べている。又(3)(4)及び録音では犯行後聚楽座のナイトショウを観て帰つたことを述べ、特に(4)では「私はKと別れてから私達が来た通りには出ないで警察の裏通りを廻つて本通に出て聚楽座にナイトショウを見に入りました。……ナイトシヨウに入つてからも警察に捕まるかと心配で映画などは頭に入りませんでした。……私はナイトシヨウが全部終る前に座を出て家に一人で帰りました。終つてから出ると知つている人や警察の人に見つかると困るから先に出たのです。」と述べており、録音においても同様の事を供述しているのである。しかるに爾後の供述においてはこれを翻えしており、他にも犯行現場に至る経路、被害者との対話等においてこれに類する多くの供述部分を見受けることができるのである。

これ等の点については両被告人が犯行を自認する以上、特に虚構の事実を述べる理由を見出し難いのみならず、それ自体あまりにも真実らしさをもつて供述されているのであつて、このことは自白全体の信憑性に多大の疑を抱かせるものである。又両被告人の供述調書中被害者の所持していたハンドバック(証第一号)並びに犯行に使用されたハンカチーフ(証第十三号)と同種類のものを指示した旨の供述記載も、検証の結果明かにされた犯行現場の状況と合致している被告人等の供述と同様畢竟自白の域を出るものではなく、たとえ両被告人の自白内容が終局的に一致しているとしても知能的に著しく劣る被告人等の自白のみをもつて科学的な根拠に基づく本件鑑定書の証明力を排斥するに充分なものとすることは到底できないものである。

第三、当裁判所の判断

かように両被告人の自白調書をもつては斉藤武雄作成の鑑定書の証明力を覆えし得るものではなく、他に右鑑定の結果を動かすに足る証拠もないので、結局本件公訴事実はその証明なきものに帰するから、刑事訴訟法第三百三十六条後段を適用し被告人両名に対し無罪を言渡すべきものである。

以上により主文のとおり判決する。

(裁判官 星宮克己 立沢秀三 宮地英雄)

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